知風学校
明治6年(1873)8月、西小熊に「知風学校」が創立され、以来30数年間小学校教育がここで行われた。
「知風学校」は、当初仮校舎が一乗寺につくられ、一乗寺の住職(廣澤唐頴氏)が院寮内で子どもたちに読み、書き、そろばんを教えていた。机は、平机で、子どもたちはそれに向かって座る寺子屋式そのままのやり方で学習した。
小熊小学校の改革史によると、明治7年3月には小学生が増加し、一乗寺の仮校舎では狭くなったため、道路をはさんで東側にあるお宮さん(阿蘇宮)に移し、阿蘇宮の境内に仮校舎を新しくつくった。
明治9年3月からは、安藤幸之助氏が二代目校長として就任され、明治19年10月までの10年もの長い間校長先生として勤められた。
「知風学校」は、当初仮校舎が一乗寺につくられ、一乗寺の住職(廣澤唐頴氏)が院寮内で子どもたちに読み、書き、そろばんを教えていた。机は、平机で、子どもたちはそれに向かって座る寺子屋式そのままのやり方で学習した。
小熊小学校の改革史によると、明治7年3月には小学生が増加し、一乗寺の仮校舎では狭くなったため、道路をはさんで東側にあるお宮さん(阿蘇宮)に移し、阿蘇宮の境内に仮校舎を新しくつくった。
明治9年3月からは、安藤幸之助氏が二代目校長として就任され、明治19年10月までの10年もの長い間校長先生として勤められた。
一乗寺に開校したとき「知風学校」と呼ばれたのはなぜなのか、こんな話がある。
江戸末期までの小熊の人たちは、大水や大風や日照り続きの不作や年貢のきびしい取り立てがあったりして苦しみ、悩み、耐えることの多い日々を過ごすことが 多かった。そして、信仰にも支えられ、隣人と助け合い、耐えるところは耐えて、親から子へ子から孫へと「生きる」ことの意味を伝えてきた。しかし希望や願 いを決して捨てることはしなかったそうだ。
明治になって世の中が大きく動き出して、小熊の人たちは、学問することが耐える生活から脱出する近道だと考えた。
「伊吹山、とってもきれいじゃ」
「やさしい、伊吹からの風じゃ」
「伊吹からの風を腹いっぱい吸うとるんや」
「伊吹山は末広で、がっちりしているな」
「伊吹の風が西から文化を運んでくれた」
「都の文化をな。伊吹の風は知風じゃ」
「これからの世の中は学問が大事やそうな」
「水呑みの子は水呑みやったが、これからはちがうそうだ。学問するのが一番ええそうや」
こうして小熊の親たちは、子にゆずる物は少ししかない農地よりも教育で学問を身につけさせることの方が大切と考え、「知風学校」と名付けたとのことである。
江戸末期までの小熊の人たちは、大水や大風や日照り続きの不作や年貢のきびしい取り立てがあったりして苦しみ、悩み、耐えることの多い日々を過ごすことが 多かった。そして、信仰にも支えられ、隣人と助け合い、耐えるところは耐えて、親から子へ子から孫へと「生きる」ことの意味を伝えてきた。しかし希望や願 いを決して捨てることはしなかったそうだ。
明治になって世の中が大きく動き出して、小熊の人たちは、学問することが耐える生活から脱出する近道だと考えた。
「伊吹山、とってもきれいじゃ」
「やさしい、伊吹からの風じゃ」
「伊吹からの風を腹いっぱい吸うとるんや」
「伊吹山は末広で、がっちりしているな」
「伊吹の風が西から文化を運んでくれた」
「都の文化をな。伊吹の風は知風じゃ」
「これからの世の中は学問が大事やそうな」
「水呑みの子は水呑みやったが、これからはちがうそうだ。学問するのが一番ええそうや」
こうして小熊の親たちは、子にゆずる物は少ししかない農地よりも教育で学問を身につけさせることの方が大切と考え、「知風学校」と名付けたとのことである。
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